「陰陽師(おんみょうじ)」という言葉が一般に広く知られるようになったのは、1986年から書き始められた夢枕獏氏の小説『陰陽師』が初めてだったのではないでしょうか。
夢枕獏氏の小説を原作に岡野玲子氏による漫画『陰陽師』は狂言師・野村萬斎氏が映画で主演して当たり役となりました。
そして野村萬斎氏のイメージと映画音楽を、フィギュアスケーターの羽生結弦氏がインスパイアして生まれたのが、ピョンチャンオリンピックでの金メダルを獲得したプログラム『陰陽師』です。
各作品の主人公・天才陰陽師「安倍晴明」のキャラクターや超人的な活躍が、これほどのクロスオーバーをもって人々の好奇心や創造力を刺激し続けるとはなんとも感慨深いですね。
陰陽師はイメージの源泉となったのです。
日本に伝わる陰陽師の歴史
「陰陽師」というのは、「陰陽の道(=陰陽道)」という専門技術を用いて天文や方位を読むことができる技術者のことで、主に平安時代の日本の政治・行政において業務した、実在の職業でした。
「陰陽道」自体の歴史は古く、日本書紀によれば、源流となる「陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)」の知識が中国から初めて伝えられたのが513年のこと。
その後も中国から多くの暦博士や天文博士が来日して知識を伝え、聖徳太子も「陰陽道」を政治理念の要素として重視したといいます。
701年、天武天皇によって「陰陽道」が初めて正式に官僚機構に組み入れられました。
「陰陽寮」という部署名のもと、最新の専門知識を持つ渡来人を中心に、古代より受け継いできた占い・天文・時・暦作りなどを行っていたようです。
当時の「陰陽寮」は案外に現代的な組織で、長官である「陰陽頭(おんようのかみ)」をトップとして分業的に業務を行う職能集団でした。
その中でも特殊な占筮(吉凶占い)や地相(方位占い)といった専門分野を持ち、現代企業で言うところのスペシャリストとしてコツコツ働いていたのが「陰陽師」です。
すでに奈良時代には、自然現象から人間個人の吉凶を占ったりもしていたようです。
平安時代中期になり、中国王朝との交流が途絶えると、陰陽寮の役割や人事にも変化が起こります。
渡来系人材の影響力が衰え、身分の低い専門職が自身の能力やアイデアを生かして出世するチャンスが生まれます。
当時の平安朝廷では、政治体制が成熟し、貴族官僚たちは出世や栄達を競い合う一方、政争に敗れた者の怨霊を恐れ、御霊鎮めに奔走していました。
陰陽師に求められる技術は急拡大します。
方相や星相の吉凶で権力者の意思決定に影響を及ぼしたり、「呪禁(じゅごん)」によって人間の運命を操作したりするようになるのです。
無名の職人に過ぎなかった「陰陽師」は、朝廷の人々を呪術や祭祀の力によって精神的に支配するほどの力を持ったと言われます。
その実像は、フィクションのヒーロー「天才陰陽師・安倍晴明」にかなり近いと言えるのではないでしょうか。
歴史の中の陰陽師の役割と仕事
人々や社会のニーズに応える形で世俗化・現世利益化していった陰陽師たちは、道教や神道、修験道などがもともと行っていた様々なスピリチュアルな呪術テクニックを取り込み、発展させます。
そして呪術界の技のデパートともいうべき唯一無二のポジションを確立していくのです。
紙や木片などで人形(ひとがた)や形代(かたしろ)を作って呪詛をかけ、相手を病気にしたり恋愛を成就させる、式神を宿らせて使役するなどが陰陽師の呪術としてよく知られています。
今でも大祓などの季節行事において、人形を使った除災を行う神社も多く残りますね。
紙などに描いた呪文や紋様を用いる霊符も呪術の一種です。
邪神邪霊がもたらす災厄からの守護を目的とするものを護符、神々に交渉して悪鬼などを調伏しようとするものを呪符と呼びます。
霊符は願望成就の霊符信仰へと発展し、いわゆる「お守り」として、ポピュラーな形で現代生活と共存してきました。
陰陽師の霊符・安倍晴明紋とよばれる五芒星
陰陽師の霊符として特に有名なのが「安倍晴明紋」「晴明桔梗」「セーマン」などと呼ばれる「五芒星」です。
一筆書きで描く五角形は、5つの頂角と陰陽五行が対応し、それが結び合わされることで「五芒星」となり、災厄からの守護、心身や空間を清浄して災厄から守る結界となるとされます。
海女で有名な三重県の志摩地方には、海女が使う手拭や頭巾などに2つの魔除け「セーマン(と)ドーマン」を描いたり縫い付けたりする風習が今も残っています。
はっきりとした由緒は伝わっておらず、陰陽道との関係も明確ではありませんが、魔除けの図形のうちのひとつは五芒星であり、海女たちがこれらを「セーメー」と呼び習わし、後世に伝えてきたことだけは確かです。