1973年(昭和48年)に、日本人として4人目の快挙となるノーベル賞(物理学賞)を受賞した江崎 玲於奈氏は「すぐれた科学者はあらゆる視野を兼ね備えた教養人である」と述べています。
この言葉の意味をイメージすれば、容易に思い浮かぶ人物がひとりいます。
ルネサンスのヨーロッパで活躍した、人類史上最高とも言うべき芸術家であり優れた科学者でもあったレオナルド・ダ・ヴィンチです。
キリスト教との格闘の歴史の中でヨーロッパには、神の神秘をめぐる理性とオカルトの伝統が競い合い絡み合う、独特の文化があったように思えます。
サンジェルマン伯爵は、そんなヨーロッパの18世紀を象徴するような、伝説的存在なのです。
サンジェルマン伯爵のおいたち
サンジェルマン伯爵は
「スペイン王室に嫁いだものの後家になって追放された、神聖ローマ帝国出身の姫君が不遇の暮らしの中で産んだ不義の子供」
「トランシルバニアの王位継承者」
などの噂はありますが、確かな身上書は残っていません。
ただ経済的に裕福であったこと。親や親族から受け継げる豊かな財産・財源がある実在の人物であったことだけは間違いないようです。
なんだかよくわからないけど血筋は高貴らしい人物をとりあえず庇護する、ということは当時の貴族社会ではポピュラーな慈善活動でした。
サンジェルマン伯爵の出世と活動
サンジェルマン伯爵は無事、欧州のサロンに入り込み、彼が持つ「商品」を売り込むチャンスを得ます。
18世紀の啓蒙思想(けいもうしそう)が全盛期のこの時代に、サンジェルマン伯爵は不思議な両面性を持って存在しました。
化学の知識が深く、ヨーロッパはもとより東方やイスラム世界の自然についての博物学的な知識がありました。
また各国語を自在に操るさまは、この時代に相応しい理性的で科学的な人格に見えます。
その一方で、「不老不死」「前世」「錬金術」「予言」といった、理性を全能とする啓蒙思想とは真逆のキーワードを身にまとい、むしろその怪しさこそが求心力となって、フランス宮廷に出入りするまでに出世するのです。
啓蒙時代、貴族のサロンで人々は、科学と理性こそが人類の希望と叫びながら、心の奥底では空虚であったのかもしれません。
フリンジなものに本当の神の真実があるかもしれない、という人間の探究心と欲望が、サンジェルマン伯爵の伝説に集約しているように思えます。
サンジェルマン伯爵の不老不死の噂と若さ
サンジェルマン伯爵のフランス社交界へのデビューは1757年のことでしたが、彼に会った人々の常識では、その肉体は20~30代としか思えなかったようです。
自らを不死者であると語り、2,000歳とも4,000歳とも自認していました。
伯爵はキリストやソロモン王といった宗教的偉人との出会い、十字軍に従軍してパレスチナへ遠征と、まるで本当に体験した者にしか表現できないようなリアリティをもって話し、居合わせた人々は驚きをもって聞き入ったといわれています。
また人々の前では絶対に食事らしい食事はせず、口に入れるものはパンと謎めいた丸薬だけと伝わっていますが、おそらくこの丸薬こそが、不老不死の霊薬であろうと思われます。
霊薬を分け与えられていたのか、伯爵の使用人も長寿でしたが、「まだたったの300年しかお仕えしていない」と謙遜したといいます。
これらの逸話を、詐欺話として一蹴することは可能です。
ですが、サンジェルマン伯爵ついて語る人の多くが、彼の「若返り」を指摘している点は注目に値します。
サンジェルマン伯爵の若さに対する証言
フランス人の作曲家で1683年生まれのジャン=フィリップ・ラモーは、1764年に81歳という長寿の末に死去するまで、その長い人生の中でサンジェルマン伯爵と何度も会ったことがあります。
その容姿に年齢的な変化は見られなかった、と書き残しています。
セルジ伯爵夫人という人物が40年後に再会したにサンジェルマン伯爵も、全く歳をとっていませんでした。
無論、この「若返り」逸話も、そっくりさんやメーキャップといったトリックの存在を指摘することは簡単ですが、10年や20年ならまだしも、40年、50年をかけて継続されるトリックがあるとしたら、それこそ不死のトリックと言わざるをえません。
ナポレオンの甥で、フランスの第二共和政の大統領から第二帝政の皇帝へと登りつめたナポレオン三世は、サンジェルマン伯爵の能力と知識に関心を持ち、あらゆる資料を集めさせたものの、テュイルリー宮殿の火災により、手がかりは全て失われたといいます。
その後もサンジェルマン伯爵を見たと主張する人は途絶えることなく、不老不死のトリックは解明されないまま継続しています